性欲とスピリチュアル 奇跡のコースから4


この記事は2012年2月6日に普段のブログに投稿されたものです。

『性欲とスピリチュアル 『奇跡のコース』から』2・3の続きです。

友達のお返事が続きます。

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じゃあ、何をしてもいいのか?
そういうわけでもありません。
今見ている「夢」は、「夢」である以上、自分の心の「見方」の反映です。

そして、このセカイは「夢」なのですから、つまりセカイとは自分の心の反映です。
セカイの原因は、わたしの心なのです。
セカイは心の中にあり、わたしの外にあるわけではありません。
セカイから自由になるには、わたしの心が、セカイを聖霊の見方で扱う必要があります。

さて、そうなると、つまりセカイにあるもの全てがわたしの心だということになります。
何を見るにも、誰と付き合うにも、どれを使おうにも、とにかくどれもこれもだれもかれも、みーんな「自分の心」なのです。

この見方にとどまるなら、自然と、このセカイとの付き合い方には注意深く、また親切になっていくことになります。
何かをぞんざいに扱うとは、そのまま自分の心を軽んじることになり、誰かを憎めば、そのまま自分の心を攻撃することになる、自動的にそういうことになってしまうからです。

ここで、善悪良否の判断も必要なくなります。

なにしろ全て「夢」なので、現実としてしなくてはならないことは、良く見えても悪く見えても、とにかく全部「現実ではない」として取り消すことだけです。

だから、最初に戻れば、「このセカイのことは、どう扱ってもかまいません」なのです。
「現実ではない」として聖霊さんといっしょに取り消す手続きさえ踏んでいれば、このセカイの中でのことは、一切が夢の中のストーリーでしかないのですから、どっちへどう転んだって何の問題もありません。
夢の中のストーリーでとんでもないトラブルになったとしたって、われわれが神の子で神と区別できないひとつの心だという現実は絶対不変のまま、ここにあります。

つまり、もうわれわれは失敗することが不可能になってしまいます。
「失敗」とはいつでも夢の中のストーリーであり、逆に言えば夢の中でしか「失敗」することは可能ではないのです。

成功に執着することもなく、失敗を恐れることもありません。
われわれの幸せは夢の中での成功に頼りませんし、夢の中での失敗に脅かされることもありません。

この見方にとどまるなら、自然と心はタフになります。
とにかく、見た目でうまくいこうがいくまいが、そんなことはわれわれの現実とは関係がないことだからです。
だから、ここで、安心して、何を見るにも、誰と付き合うにも、どれを使おうにも、とにかくどれもこれもだれもかれも、みーんな「自分の心」という見方で居続けることができます。

どうでしょう、こういう見方で居続けるなら、マザー・テレサみたいなことだって、できそうな気がしませんか?

スピリチュアリズムで、自然とこういう姿勢に持っていけると思いますか?
だいぶ頑張って努力して闘わないといけないんじゃないかしら?

コースなら、無理なく、自然と、そうしてしまうような、ものの見方を教えています。


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友達のこのお返事に私はお返事をしました。
長くなるので5に続きます。

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