悟りの勉強をしていて勘違いする『心の自由度』のこと


先日、ある悟りを勉強をするために
禅の瞑想をされている方と話して、
その方のちょっとした発言と行動から
自分と同じことを感じて(または思って)
それをやっておられるのだということに気づき、
これは悟りの勉強をしている場合に
勘違いしないようにしないとならないことではないかと思いました。

それについてスピリチュアルTVのチャットで
悟りを得られている視聴者&出演者のSさんに話してみたところ、

「しおんさん、そうだと思います、
ブログで書いてみてもいいと思いますよ」

とおっしゃっていただけたので、
あながち間違いでもないのではないかな
と思うので書いてみます。

ただ、私はまだ悟りを得てはいないので、
悟りを得た方から見て間違ったことだったとしたらごめんなさい。

悟りを得るために自覚法に取り組んでいくと、
自分が心に持っている概念や
固定観念の枠をはずすということを
少しずつやっていくことになり、
それゆえに心の自由度が
少しずつ高くなっていくというのがあります。

簡単にわかりやすく言うなら、

「自分を制限している観念から自由になるので
それにより開放感を感じ幸福を感じる」

とでも言えばいいのでしょうか・・・

そのため、心の自由度を求めるために、
環境的にも自由度を得ようとするようになり、
それゆえに間違った選択をするようになったりします。

『社会通念上』とか『常識的に』とか、『良識的に』とか、
斎藤ひとりさんのおっしゃる愛の視点からの
『超常識的に』という視点から見て、
間違った選択をしての言動や行動をするようになる、
ということです。

自分が身を置く環境において、
束縛などの制限を少なくしていくことが、
心の自由度が高くなるのだと勘違いしてしまうのです。

よくやってしまいそうなのが、
家族・学校・会社やお店・サークル・なにかの団体などの
決まり(ルール)を守らなくなるとか、

人間関係においての

「これは一般的に相手に対してやったら
相手との関係が悪化してしまう」

「これは相手に対してマナーが悪いことである」

というようなものや、

会社やお店での雇用契約での拘束されての労働をやめて
不労働収入かもしくは少ない時間働いてぽんと稼いで、
自由な時間をたくさん持って好きなことをやるという
悠々自適な生活を過ごすというような、

そういう「制限」から自由になるという環境を
なるべく多く確保するのが心の自由度が高い、
という風に勘違いしてしまうのです。

ですが私がここで気づいたのが、
この地球上で肉体を持って生きるというのは、
いろんなたくさんの制限があるのが至極当然、
という、それが地球と人間社会という場所なので、

悟りの観点からすると、

「制限されているものについて
制限されているという物の見方をしない」

というのが悟りの観点であり、

たくさんの制限について、
「制限されていると見ない」
ものが多ければ多いほど、

『心の自由度が高い』

ということなのではないかと思ったのです。

悟りの勉強をして観念の枠をはずしていくと、
「自由になった」という開放感の幸福を感じるため、

『この地球上で生きている限り、
環境的には制限があるのが当たり前
だということを受け入れなくなってしまう』

という心を持ってしまうことがあるという勘違いが起きる・・・

これは「らくをしたい」というエゴではないかなと私は思っています。

『心の自由度』とは

「自分という心のセカイの中だけにおいてのみ』

のことだと思います。

私は自覚法は思考で自分の心の内にある考え方の
大元の原因を追求していって探っていくという
思考でのやり方でやってしまうのですが、

フラワーエッセンスでのエネルギーヒーリングや、
奇跡のヒーラーのブルーノ・グルーニングさんの
ハイルシュトローム(神の善のエネルギー)による
『神の治癒』(聖霊療法)に取り組んでいるので、

それによって心の癒しが起きて固定概念に改善が見られたりすることで、
悟っている人が悟りの観点から言っていることと同じことを
自分で感じて思っていた、そういう心の状態(境涯)に
自分がなっていたというものがいくつかありまして、

ですがこの『心の自由度』について、
私は病気のため生計を立てていく労働をしなくてよくなったことで、
労働をしなくていいという自由度が高くなったことで、
心が『時間的に拘束される』ということや、
『強制的にやらされる』というのを嫌がるようになるという、
そういうエゴの心を持つようになって、

地球上で肉体を持って生きる上で、
ここはいろいろなことで制限を受けるのは
至極当たり前の場所であるのはわかっていたので、

それらの制限を「制限として見ない」という
「愛の視点」を持てるかだということを思うようになりました。

冒頭で書いたスピリチュアルTVの視聴者&出演者の
悟りを得られているSさんが教えてくださったのは、

「悟りを得ても性格悪いやつは性格悪いんですよ。
基本的な性格は変わらない。」

ということなのですが、

『悟りを得ること』と『愛の意識が高くなること』は別だと知りました。

私の場合、悟りを得たいと思っているけれど、
悟りを得ても愛の意識に乏しいのでは、
どうしようもない・・・

悟りを得て愛の意識が高くなることを求めていて、

愛を発揮するためのことをしているとしたら、
『決まり(ルール)』を守ることも、
自分の時間を提供して拘束されて働くことも、
自分が自由に使うお金からお金を工面することも、

なにかそういういろんな制限と思ってしまうものについて、
愛の視点は

「制限されていると見ない」

ことができるのではないかと思ったのですが、
悟りの観点で言う『心の自由度が高い』というのは、

「環境的に制限を少なくすることではない」

ということに、私は気づいたのでした。

悟りの観点や愛の視点から見て
間違っていることを言っていたらごめんなさい。
m(_ _)m

これは私にとっての心の気づきなので、
一意見だと思っていただければと思います。

「なるべく制限を受けずにらくをしたい」

というのは、それだけ心が疲れているのかもしれないし、
霊的エネルギーや生命エネルギー不足なのかもしれないし、

過去世で奴隷をやっていたとか
過去世だけでなく現世でもずっと
自分の望まぬ人生を生きて嫌になったとか、

なにか私が知らない他の理由もいろいろあるのだと思います。

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