NO2 『善悪ジャッジ』と『善も悪もない』について


2016年10月5日に、

NO1「善悪ジャッジ」と「善も悪もない」について
http://tensitatinokotodute.blog.fc2.com/blog-entry-1991.html

という記事を書きましたが、
それについてご質問をいただいたので、
私はこう考えているということからお返事をしたのですが、
それを掲載します。

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私も悟りを得たわけではない、
覚醒体験を感覚で実感したこともないから、
悟りを得ている方たち、非二元状態の方たちが
感覚などで実感されていたりのその心の境涯ではなく、
それどころか非二元の方たちの話が、
聞こうとしてもぼーっとしてしまい、右の耳から左の耳で、
頭に入ってこないくらいです。

悟りを得られた方や非二元状態の方たちは、

「その心の境涯で見ているもの」

を言葉にして私たちに話しているはずです。

それらは、

「そういう物の考え方」

なのではなく、

「そういう心の境涯の状態」

を言葉にしているはずです。

ですが私や悟りをまだ得ていない方は、
悟りを得た方たち、非二元状態の心の境涯の方たちの
言っていること(その心の境涯)は
どうしたって実感ではわからず、理解できないのです。

悟りを得ていない状態だと、

「そういう風に考えるんだな」

としてしか受け止められなくて、
その心の境涯でもなければ、その心の境涯によってわかる
「感情」や「感覚」での「実感」の感覚が伴わない状態で、

「そのように考えるようにする」

とするだけしかできません。

だから、他人事の場合は、

「悟りや非二元ではこういう風に考えるのだから」

となり、いかにも自分はそのように考えることができていると
勘違いしてしまいますが、
いざ自分の身に「そのこと」が降りかかったときは、
その出来事に対して思考があり思考に基づく
「嫌だ」という感情や「辛い」という気持ちを感じます。

だからそうなると悟りや非二元の人たちが
言っていることのように考えられなくなるのです。
そう考えたとしても、感情がついていかなくて
そう思考すること(考えること、その考えの視点で見ること)は
できなくなるのです。

そこで、自分の身にふりかかってきた嫌なこと、辛いことに対する
ヒーリングや神の治癒で心を癒して感情エネルギーを浄化し、
ショックを癒して、心の傷を癒して、
愛の心の境涯をどんどんレベルアップしていくことで視点が変わる。

視点が変わるということは心の境涯が変わったということなのですが、
神の治癒やなにかのエネルギーでのヒーリングに取り組むことが
必要になってくるのです。

で、「善」「悪」というのは私のような悟りを得ていない、
非二元ではない心の境涯の状態だと、

「あるようでない」「ないようである」

という風に「考えるもの」になります。

悟りを得ている、非二元の心の境涯の状態の人にとっては、
このセカイそのものが「幻想」(まぼろし)で「ない」のだということが
感覚で感じて実感で知った、わかったということなのかもしれないので、
それで「善も悪もない」(なぜならまぼろしの世界だから)
ということかもなので、
そこのところは私ではわからないので、
悟りを得られている方や、非二元状態の心の境涯の方、
悟りを得ている禅のお師匠さんに質問してみるといいと思います。

ただ、悟りを得た方もこのセカイで生きているので、
肉体を持っている以上、このセカイの物質的なものについて、
「在る」のを感じていて、「このセカイで生きている」
と感じていて認識はしているはずです。

「善」「悪」は個人個人それぞれの価値観によって判断が変わるし、
また、不特定多数が同じように「それ」を
「善」とみなしたり、「悪」とみなしたりするものもあり、
また、少数派の人たちにとっての「善」と「悪」の価値判断があります。

ですので「善」「悪」は人によって違ったり人と同じだったりする、
そういう「曖昧なもの」なんです。

そのうえで、その国によって決められた「法律」があります。
「法律」で「してはいけません」と決められているものは、
その国によって違うんです。

たとえば、アメリカでは成人すると個人が銃の保持をしていいのです。
自分の命を守らなければならない時、
アメリカでは攻撃してきている相手を銃で撃ってもいいのです。

それで自分の命と身の危険から護身として自分の命と身を守るために、
攻撃してきた相手を銃で撃って相手を殺してしまったとしても、
それが裁判で護身としての正当性があると判決が下った場合は、
許されるのだという話を聞いたことがありますが、

しかし私は英語がわからないので、
アメリカの法律家とか裁判長などに確認したわけではないので、
違っていたらごめんなさい。

ですが日本では銃の保持が認められているのは、
おそらくきちんと猟師として銃を保持して動物を撃つことの申請を
法的にして認可が降りている人くらいだと思います。

日本では護身のためであっても個人が銃を保持してはいけないし、
外出時に刃物を持つことも銃刀法違反になります。

(日本では成人者が筆箱の中にカッターを入れて外出して、
警察官に持ち物チェックをされたとき、
銃刀法違反で捕まる可能性もあるくらいです)

「善」「悪」の判断はそれくらい曖昧なもので、
人によって、社会によって、国によって変わる曖昧なものなんです。

また極端な例になりますが、わかりやすいと思うので、
レイプ(強姦)を例えに出してみましょう。

「善も悪もない」という考え方をするとしても、
誰かがレイプされたことに対しては、
「善も悪もない」と考えて、

「レイプした人もきっとなにかどうしようもない事情があって
してしまったんだろうな。」

と思ってレイプという犯罪を犯した人のことを
許すことができたとします。

でも、じゃあ自分が女性だとして、
帰りが遅くなって夜道を歩いていたら、
1人とか、何人もの男性に襲われて
輪姦されたり1人の男性にレイプされ、
妊娠して堕胎して体も傷ついたとしたら、
自分はそれに対して、ショックを受けて心が傷つくことなしに、

「善も悪もないんだから、私は許せる」

と考えてそう思えるでしょうか?

※それでレイプされてトラウマになった場合は
『神の治癒』(聖霊療法)やフラワーエッセンスなどの
エネルギーでの心の治癒に取り組み、
感情エネルギーの浄化をして心を癒し、
そのレイプという辛いことの感情から解放されると、
それを本当に「許せている」心の状態になるということです。
ですが解放されて「許している」心の状態になったとして、
じゃあそのレイプという行為を「してもいいこと」に
できるかというと、そうではありません。

悟りを得た、または非二元状態の方が
夜道で通りすがりの知らない人にレイプされても、

「こんなことはまぼろしでなんてことない、善でも悪でもないこと。
嫌なことでもなんでもない。」

と本当に思うことができるのか、と私は思います。

私たちはこのセカイにいてこの国の地域社会の中で生きていく以上、
どうしたってある程度の善悪ジャッジはすることになってしまうのです。
しないと自分の身と経済力を守ることも家族の命を守ることもできないのです。

「善も悪もない」という考え方を自分はしているからと、
じゃあ目の前で犯罪的なことをしている人や子どもを叱らなくてもいいか、
注意しなくてもいいのかと言うと、そうではないわけです。

(もちろん、注意したいと思っても相手によってや、
自分の心が弱くて怖くてできないこともあります。)

でも相手の行動言動を「いけないこと」として
叱る場合や注意する場合や、
自分自身がなにかの行動言動をするにあたって、
「これをするのはいけない」と判断するのは、
善悪ジャッジをしなければできないのです。

だから、「善も悪もない」という悟りや非二元の心の境涯の状態でも、
善悪ジャッジはしなければならないときは
人としてしないとならないこともあるのです。

聖霊とイエス・キリストからのメッセージである
『奇跡のコース』で、イエスさまは

「すべてを許し続けること」

ということを言っているのだとお聞きしたことがあり、

そのために『聖霊の視点と物の考え方』をするための
『365のゆるしのレッスン』のワークブックがあり、
『365のゆるしのレッスン』を1日1レッスンをして、

「そのように考えて見る」

ようにすることを心がけると、
そのゆるしのレッスンや奇跡のコースのテキストで
イエスが伝えているメッセージを
「理解できる」ようになる体験をすることになるのだと、
そうお聞きしております。

悟りの勉強や非二元の勉強、そしておそらくキリスト教、
『奇跡のコース』を学んでいる場合、
善悪ジャッジをしないで「すべてを許す」ことをするのですが、
この地球上の地域社会で生きていくのに
すべてにおいて善悪ジャッジをしないで行動言動して生きていく、
ということはできないのです。

裁判員裁判制度で裁判員に選ばれたとして、
じゃあ、

「私はすべての物事も人の心にも善も悪もないと見ているので、
私は犯罪を犯した方を全面的に許します」

と言ってそれを通用させられるのかと言ったら、

「ちゃんと法律の観点と犯罪者と被害者の情報から考えてください」

と言われるのではないかと思うので、

「善も悪もないので私は許します」

が裁判員として通用させられるかといったらそうじゃないと思いますし、

自分が法律で禁じられていることをして警察に捕まって、

「私はすべての物事にも人の心にも
善も悪もないという悟りの物の見方をしているので、
私に罪を着せず私を釈放してください」

と言っても通用しないのだということは
おわかりになっていただけることと思います。

だから、「善も悪もない」というのは、

「自分という心のセカイの中だけにおいては善も悪もないと考える」

だけであって、この二元と分離を体験する場所として
作られている地球という場所の、ある一国の国民として、
人として地域社会で生きていく以上は、

「善も悪もある」

という善悪ジャッジをする必要がある場合がある、
ということになり、善と悪については、

「あるけれどない」「ないけれどある」

というものになるんです。

「善も悪もないんだからなんでもしていいんだよ」

というわけではないんです。

だから悟りを得ていても得ていなくても、
悟りの観点(心の境涯)からのこと、
非二元の観点(心の境涯)でのことを取り入れて
地域社会で生きていくというのは、
とても難しいことをすることになり、

物事によって臨機応変に、
悟りの観点(仏性もしくは聖霊の物の見方)で考えてゆるしたり、
善悪ジャッジをして対応したりして生きていく、
ということになります。

ただし、神も宇宙も善悪のジャッジをしません。
神は私たちが「善」「悪」を自由意志ですることを認めて許しています。
だから殺人や犯罪を犯した人でも神はその人の命をその場で奪って
あの世に連れていったりしていないのです。

(死んだのちにあの世に行って自ら反省部屋に入るとか
地獄みたいな階層世界に行かされるとか、
スピリチュアリティでは言われていますが)

地上において悪だと思う「そのこと」を
罪とみなして罰を与えるのは人間がやっていることになります。

この地球上で生きている私たちは、
いろんな心の境涯の人がいて、
愛のレベルの心の境涯ではない人も、
いろんな愛のレベルの心の境涯の人もいるので、

それらの人たちがいろんな体験をして生きていくのに、
イエスやお釈迦さまの心の境涯にはなっていないため、
すべてを許せたりはしない、許せないこともあるから、
善悪ジャッジをすることになります。

「善も悪もない」「善も悪もある」を
使い分けしながら生きていくことをするということになります。

私も、悟りを得てはいないから、
悟りを得た人、非二元の心の境涯の状態は、
まったく「わかっていない」のです。

ただ、そういう心の境涯の方の話を聞いて知識を得て、
それについて理解しようと考えたりすることや、
わかるための体験を神さまによってさせられるのだと思います。

奇跡のヒーラーのブルーノ・グルーニングさんは、

「法律は守らなければなりません」

「神の秩序を守りなさい」

「秩序を守りなさい」

とおっしゃっています。

それは地域社会で生きていくにあたっても
人として生きていくのにも必要だからです。

スピリチュアリティをやっているからと、

「善も悪もないからなんでもしていいんだよ」

として、地域社会でそれを通用させて生きていけるかといったら、
そうではないということです。

奇跡のヒーラーのブルーノ・グルーニングさんの紹介文はこちら
http://tensitatinokotodute.blog.fc2.com/blog-entry-1406.html
(病気治癒だけでなくあらゆることで奇跡が起きます
奇跡が起きるかどうかはあなたにかかっています
それゆえブルーノさんは奇跡が起きることは保証はしていません
が、あなたが神さまの愛の送信を受信できれば奇跡は起きるでしょう)


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